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2009年10月27日 (火)

「素敵な逝き方だった」

知人のお母さんが亡くなった。
手術をした、と聞いたのが1年前くらい。その後会う機会も無く、術後の容態も聞かぬままに、訃報に接した。

お通夜で久々に知人に会った。
最後の3週間くらいはずっと家で看病して、最期も自宅で迎えたことを短く語った。
そして、「素敵な逝き方だった」と言った。

「素敵な逝き方」という言葉と、それを発した知人の表情が、不謹慎かもしれないが、晴れやかにすら見えたことが、とてもとても印象的だった。

葬儀場の担当者のアナウンスによれば、知人の母上は、病気になった後も愚痴ひとつ言わず「家族に囲まれて幸せよ」と常に口にされていたという。夏には家族水入らずで旅行をし、そのときに撮ったという写真が遺影だった。とても70代には見えない若々しくはつらつとした写真だった。

知人も、そして母上も、残念な、寂しい気持ちがないはずはないが、きっと悔いはないだろう。知人の言葉や語り口から、そう感じた。


奇しくも今回のお通夜の前々日は私の父の命日。
毎年のことだが、命日の前後はなんとなくもやもやとした気持ちになる。もう過去のことになっているような、でもまだまだ自分の中では消化しきれないものが残っているような。13年間毎年毎年、同じことを思っている。これから何年たっても同じような気もする。

私は、父の病気を受け入れる事が出来ず、事実に向き合わないように逃げていたところがあった。
父との残された時間を充実させようと前向きな気持ちになれなかったのは、「残された時間」がものすごく限りがあることを認めることになるような気がして、とにかく怖かった・・・のだと思う。

その時の私にはそうすることしかできなかったので、後悔しても仕方が無いのだが、知人のような例を見ると、ただただ、自分は未熟だったなと、情けない気持ちになる。
でも、今もう一度チャンスを与えられても、やっぱり同じことを繰り返してしまうかもしれない。

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